2018.05.27 美濃金山城(岐阜県可児市)から長篠城(愛知県新城市)まで [国内旅行]
中津川インターから高速に入って、東海環状自動車道の可児御嵩インターで下りる。
可児市兼山にある資料館へ出向き、続100名城に認定された美濃金山城スタンプを押すとともに、情報を入手。苗木城に続き、ここでも御朱印をいただけた。
山の麓の資料館から車で山の中腹へ。
蘭丸という名前の通り、森氏が4代にわたって城主を務め、森蘭丸も名前だけ城主を務めている。名前だけというのは、本職では織田信長の側用人を務めていたため。
車で更に山頂近くまで行くと、このような眺め。御嵩町方面を見る。
出丸跡に車を駐めて、本丸方面へ。
美濃金山城は、森氏が川中島に転封になった後、城が破却となり、尾張藩の土地となって立ち入り禁止の場所となり、明治時代は皇室御料林、戦後は国有林となって、1953年に払い下げになった。それを記念する石碑である。
城が破却となり、再度ここに城を建てることがないように石垣も崩されたという。
その跡も残されている。
二の丸を通って本丸跡へ。当然ながら、何も残っていない。
本丸跡から木曽川が見える。
上流に向かうと、先ほど訪問した苗木城にたどり着き、下流に向かうと現存天守の一つである犬山城にもたどり着く。
当時の美濃金山城の建材を木曽川に流して、犬山城の改修に使ったり、大手門などを犬山の瑞泉寺の門に流用したという。
美濃金山城と犬山城に繋がりがある他、川中島に転封となった森可成が更に岡山の津山に転封となり、津山城を築いて城下町津山を作り上げた。意外なところで歴史は繋がっているのが面白い。
のんびり走る名鉄電車を見ながら次の場所へ。
東海環状道を通って、愛知県に入った。
豊田松平インターで下りて、国道301号線を東に進む。
山道をくねくね進んでいると、「松平氏発祥の地」の看板。
予定していなかったが、立ち寄ることにした。
松平郷の入口にあるのが松平東照宮。
元々は八幡宮として建てられ、家康が亡くなってからは家康も合祀されて東照宮になったという。
御朱印は直接書いていただける方が不在だったので、書置きの紙でいただいた。
昼食は下山の里で。
お店の前に「名物 五平餅」と書かれていたので、五平餅定食を食べた。
八丁味噌の五平餅は最高。愛知県まで来たという実感が湧いてくる。
301号線を更に東に進むと新城市に入る。
15時過ぎに作手歴史民俗資料館に向かうと、何だかひっそりとした雰囲気。
「今年の4月から15時閉館になったんだけど、ガイドブックに16時までで載ってるものだから、来る人を待ってまして」
この資料館で続100名城のスタンプを押している間にも他に何組かの来訪があった。
そして、本題の古宮城跡へ。
城跡は白鳥神社の敷地にある。
この神社を管理しているのは誰なのかも分からない。
城跡に立つ御神木。城が存在していた時からあるのだろうか。
武田信玄の家臣によって築かれたが、武田氏の衰退とともに廃城になったとされる。
土塁が形だけ残っている以外は、杉の木が乱立していて、ここが城跡だったとは思えないような雰囲気だった。続100名城として整備されるのはこれからといった感じである。
同じ新城市にある長篠城へ。
地図で見ると、2つの川が合流するところに城が築かれたことになる。
この場所を巡って徳川軍と武田軍が戦いを繰り広げた「長篠の戦い」の舞台でもある。
広場になっているところが本丸。
奥のフェンスの向こう側には、今はJR飯田線が通っていて、そこから2つの川が合流するところまでが城跡。
こうして、2日間の城と御朱印めぐりを締めくくって帰宅の途についたが、夕方4時半に出発して、地元に到着したのは午後9時過ぎ。新東名を通って帰ったが、神奈川県内で渋滞に巻き込まれて遅くなってしまった。
今回も充実した内容だったと思う。このような順調な流れが今後も続けばと思いながら、旅行を締めくくった。
次のページから、新しくできた外環道を使っての遠出の話を書きます。
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